母の日





 洗面所の手洗い場のわきに、桃色の洗顔料がおいてあった。
 ここは毛利家の洗面所である。三十歳になる英理の夫・小五郎と小学三年生の娘・蘭が二人で暮らしており、母親である英理はワケがあって一緒に生活をしていない。
 だがその洗顔料には、――桃の葉エキス配合 メイクもばっちり落とせる――、と書かれていた。
 メイクをする人間のいないこの家に、ちょっと異質な感じがする。……まさかどこかの女が出入りして……? 英理は訝しんで掴み取る。ずっしりと中身が詰まっていて、パカ、と調べるとチューブの先には使用痕がない。
「新品? まったく、あのひと……。いったい、どこまで予想していたのかしら」
 英理は顔を上げる。鏡に映るその顔は、目元のメイクが涙でにじんで、崩れていた。

 顔を洗ってさっぱりとリビングへ戻ると、ぽん! と小気味のいい音がした。小五郎がシャンパンの瓶を小脇に抱え、あふれた泡に「おっとっとぉ」とひとり楽しそうにじゃれていた。
「おう。開けちまったから、ちょっとつき合えよ。ひとりじゃ一気に飲みきれねぇしな」
 小五郎はグラスへ注ぎはじめた。ちゃぶ台の上にあった三人分のケーキの皿は片づけられ、代わりにグラスがふたつ。それにチーズまである。その準備のよさに、英理は目をまるくする。
「酔わせてどうするつもりなのよ」
「さあな……」
 どうもしねえよ、ではなく。さあな……。ぶっきらぼうに聞こえるが、その奥には、はっきりとした意思があるようにも聞こえた。
 英理は黙ってとなりへ腰を下ろす。緑がかった金色のきめ細かな泡の様子をみつめた。
 こうして肩を並べて飲むのは久しぶりだ。日々電話で報告し合っているものの、すぐに喧嘩になるので手短になりがちだ。だからグラスの底から立ち上がる泡のように、話題がつきない。もちろん蘭の話が多くなる。
「あいつ、卵焼きがうまく巻けるようになったんだよな」
 小五郎は感心した様子で言い、英理はやさしい微笑みをうかべた。
「へぇ……。だから今日のお料理、卵焼きが多かったのね」
 今日は母の日だ。華やかな食事をふたりで用意してくれた。「じゃーん!」と、蘭は誇らしく胸をはって。

「そうだ、驚いたわよ。まさか蘭が空手を習いはじめるなんて。ぜんぜん思っていなかったもの」
「ああ……。あいつ柔道より空手なんだとよ。ひさしぶりの道着の洗濯が意外と大変でなぁ」
 小五郎のあかるい愚痴に、英理は学生結婚をしていた頃へ思いをめぐらせた。小五郎の柔道着を洗濯した遠い遠い過去のこと。分厚い生地がなかなか乾かず、けっこう苦労したこと。
 変化といえば、さいきん蘭は自分の部屋で、ひとりで眠るようになったらしい。それも英理は、つい先ほどまで知らなかった。「本当に成長したのね」としみじみ言うと「朝起きるといつのまにか隣で寝てるけどなぁ」と小五郎は困ったような、でもうれしそうなお父さんの顔で言う。
 そんな父娘を微笑ましく思いながら、英理は、きのうの土曜日に行われた授業参観での出来事をぽつぽつと話しはじめた。母への感謝をテーマにした作文を蘭が読み、膝から崩れて号泣しそうになったことを。

『 いつも ありがとう。 強くてかっこいいおかあさんが 大好きです! 』
「……いつもありがとう、なんて。本当、参っちゃうわね」
「素直な言葉じゃねーか。受け取っておけよ」
 英理は考え込んで目を伏せる。先ほど蘭がベッドで眠りにつくとき、ふたりで手を握っていた。「えへへー」と笑顔で目を閉じたのだが、眠る間際にそのちいさな手の力が、きゅうっと強くなったような気がしたのだ。
 眠りについたのを見届け、英理はそっと洗面所へ向かった。そこに用意されていたのが桃の洗顔料だったというわけだ。本音が言葉ではなく行動に表れるところが、パパとそっくりだ。
 ボトルの様子をチラリとうかがうと、残りはわずかとなっていた。このシャンパンを買い、洗顔料をカゴに入れたときから、小五郎は英理の涙を予想していたのかもしれない。
 問いかけのような視線を送ると、小五郎は目を閉じグラスを口へ運ぶ。その表情は、わざわざ聞くなよ。だ。

 頬を赤く染めた英理は、トス、と小五郎の肩にもたれかかった。すっぴんの頬をポロシャツの袖へ擦りつけ甘える視線で見上げると、やさしい瞳と目があった。