この階段を駆けのぼるのは、何度目になるだろう。いったい何度、こんな思いをすれば、いいのだろう。
「お母さん、冷静に!」
蘭の制止する声が聞こえたが、夫がナイフで刺されかけたと聞いて、冷静になれる妻がどこにいる。
「んだよ、騒々しい……」
勢いよく寝室の扉を開けると、暗闇で寝ていた小五郎が、目をこすりながら上体を起こした。まだ二〇時だというのに、すっかり眠っていたらしい。
「あなた依頼人から刺されたんですって!?」
「あぁん? ……あぁ、あれな。未遂だ、未遂。んなことよりコッチはなぁ都内中引きずり回されてヘットヘトなんだよ! いきなり来てギャーギャーわめいてんじゃねーよ」
「知らせを聞いて、私が何も感じないとでも思うの!」
寝起きの小五郎の目が私をとらえた。肩で大きく呼吸をし、狼狽えている妻の姿を見て、労るように目が細まった。
「……ったく。だからお前には言うな、っつったのによ」
小五郎は面倒くさそうにそう言って、ぽんぽんとベッドを叩いた。力が抜け、そこへ素直に腰を下ろすと、ギシイとスプリングのきしむ音がした。
「そんなこと、許される? 私にはあなたのことを知る権利があるし、あなたには報せる義務があるわ。これでも夫婦、なんですから……」
弱くなっていく語尾支えるように、いつの間にか彼の腕に手を置き、強く握っていた。慣れているはずの太く固い前腕のたくましさに、複雑な感情がこみあげる。
「オイ泣くなよ」
「泣こうが喚こうが私の勝手でしょ!」
「英理」
「いいわ。とにかく。無事で良かったのよ」
しわくちゃになっているワイシャツに、混乱している頭を預けた。頭を揺らして、額を擦りつけた。小五郎はただ困ったように、頬をぽりぽりとかいていた。
「だから知らせたくなかったんだよ。……悪かったな、心配かけて」
「別に。謝ってほしいわけじゃないわ」
「わーってるよ……」
「本当に?」
「ああ」
返事と共に、頭を撫でられた。ホッとして彼の背中に手を回すと、そこは寝汗をかいて、しっとりと湿っていた。
聞こえてくる鼓動と呼吸の音。もうしばらくこのままでいたい……。そう思っていると、リビングから差し込んでいた明かりが扉に遮られ、ゆっくりと、何も見えなくなった。