近所のコンビニはスポーツ新聞の入荷が少なく、午前中で売り切れてしまいがちだ。俺は、大あくびをしながら事務所の机でそれを読むのが、平日朝の日課となっている。だが、そんな平和な朝を、ぶち壊すあの女が来襲した。
「あら、あなた。いたの」
「英理ッ⁉」
海よりも深い大人の事情で、別々に暮らしている俺の女房だ。だがこうして時々、きまぐれに顔を出しにくる。予告が一切無いのが心臓に悪く、俺は毎回ショック死しかけている。
「ちょっと近くまできたからコレ、蘭たちにと思って」
英理はテイクアウト用のケーキ箱を上げて見せた。
「ケーキって……。お前、こんな朝っぱらから……」
「冷蔵庫に入れておくわよ。学校から帰ったら食べるように言ってちょうだいね」
そう言って返事も聞かずに三階へあがっていった。アイツ、当然の事のようにウチの合鍵を持ってやがるが、俺は一度も渡した覚えなんてない。
フン。わざわざ手みやげを持って来るくらいなら、面倒だし、さっさと帰ってくりゃいいのにねェ。何考えてんだかまったくわからん。放っとこ。
そうして俺は、ガサガサと新聞を広げなおした。
しばらくして、めぼしい記事は読み終えた。だが、迷惑な来訪者が、上から降りてくる気配がない。
「……」
いま、大変嫌な予感が頭をよぎった。まさか白昼堂々と家捜しでもしてるんじゃ……。俺は、ハッと気づいて新聞を閉じ慌てて事務所を飛び出した。いや、別に見られてやましいモンは、なんもねー、けど!
階段を二段飛ばしで駆け上がり、真っ先に飛び込んだのは寝室だ。案の定、英理はそこにいて、俺のベッドの前に座り込んでいた。
「ちち違うぞ英理。べつにソレはっ!」
「……」
「ま、麻雀仲間が、処分に困るって、押しつけやがってよぉ~」
我ながらやましさ満点の言い訳だと思った。だが本当の話なのだ。「何か私に隠し事なーい?」と聞かれて必要以上にゲロッちまう哀れな男ってわけだ。
「……」
「……おい、英理?」
返事がないのが妙で、英理の顔をのぞき込んだ。よく見ると、英理は顔の右側をシーツにつけていた。
すぴー、と聞こえてきた寝息。そう。突っ伏すように寝ていたのだ。
……なーんだ脅かしやがって。寝てんのかよ、あービビッた……って、
はぁぁ?
「……メガネ、ひんまがるぞ」
なんなんだか、訳がまったくわからんが。細いフレームをつかんでそっと外した。コイツ、変なところで寝落ちる癖があったっけなぁ。ついでに。うっわ、寝顔……。と当たり前の不意打ちに焦るのもワンセットだった。分かってるのに、何度やられたことか。
だって夫婦なんてもんは普段、じっくり顔なんて眺めねーだろ? 俺たちなんて、そもそも顔も会わせないから。ま。寝顔なんてそう変わんねえと思うがな、と思いつつ、じっと見つめた。
まつげ、なげーな……。そう思ったが最後、目が離せなくなった。まゆげ、巧いこと手入れして芝生みてえだな。とか。唇が微かに開いちまってまぁ、黙ってりゃー可愛いモンなんだけどなぁ、とか。あ、目尻にうっすらシワ⁉
そんな、ちょっとした変化に気づく。メガネだと気づきにくいのが、目の下にうっすら飼ってるこのクマだ。そっと親指でなぞると、英理がゆっくりと目を開けた。
「……ア、アラ?」
「おやおやぁ、先生。お目覚めですかなぁ」
「……え。私なんだかココに、吸い込まれるように……?」
「俺様のベッドに、気持ちよさそーにヨダレ垂らしやがってよぉ」
「やだ、ウソ……!」
起きようとするので、まあまあ、と顔に添えている指で耳を撫でた。英理は少しだけ嫌がりつつ、気持ちよさそうに目を細めた。猫みてえ。ちっとも寄りつかねーくせに、気紛れにすり寄ってくる面倒くせー性格のヤツだ。
「少し、寝てけ」
「えー……? でも、シーツがたばこ臭いのよ」
「とか言って。身体はベッドから離れられねーってよ」
「……ねーえ。わざとスケベな言い方してなーい?」
英理の目が怪しく光って、俺はドキッとした。
「ば、馬鹿。俺は別に」
「気をつけなさいよ。涎とかベッドとか。そういうの不快に思われたら立派なセクハラよ」
「そんな意味じゃねーよっ。深読みしすぎだろ!」
「そ? じゃあ人相のせいね」
「あのな……」
「まったく。私だから許されるんだから」
ン? それって? 追求するまえにサッと目を逸らされた。
──待てよ? そういや顔を見るなり「いたの?」なんて言ってたが、もしいなかったらどうしてたんだよ? まさか時々勝手に、一人でココで寝こけてんじゃ、ねーだろうな……?
おーいおいおい。白状しろ! 耳をくすぐる様に指を動かすと、キラキラと石がよく光りやがる。
そうだ。コイツ、家出したあと何の相談もなく勝手に穴なんて開けやがってなぁ……。知ったとき、結構ショックだったんだからな。
「あなたって意外と保守的なのよねぇ」って英理は見せつけるように嘲笑ったっけな。それで俺は、耳に付けるアクセサリーだけは贈ったことがない。ハハ、子どもっぽいか?
「あいにく時代遅れで保守的な、セクハラオヤジでね」
「困ったものね」
コイツ、当然気づいてるだろうな。女にこれ以上傷はいらねえだろ。って俺、ウッカリ言っちまったから。ちょっと尖ってる生意気な耳の形。なあ耳占いってあるらしいぜ? お前間違いなく気が強そうって言われるな。
「やだやだぁ……。そんなあったかい手で撫でられたら、また寝ちゃうぅ……」
「徹夜か?」
「そこまで無茶するほど若くないわ。けど、打ち合わせが一個飛んだもんだから、気が抜けたの、かしらねぇ……」
「心配しなくても叩き起こしてやっからよ」
「だいじょーぶ。きっと栗山さんが、優しく起こしてくれるはずよぉー……」
「お前の彼氏かよ」
「……ふふ」
ウトウトと、顔の力が少しずつ抜け、瞼がゆっくり下りはじめる。あ、このまま寝る? 寝る、寝る、寝る、ハイ寝たー。再び、すぴー、と平和な寝息がきこえる。……ったく、久々に子どもを寝かしつける気分だぜ。なんなんだ? 俺はコイツの親なのか?
『──添い寝、してくれてもいいのよ』
俺はな。そう甘く囁いてくれる色っぽいオネーチャンが、本当は好みなんだよ。
やだねー。あーやだやだ。早起きなんてするもんじゃねーな。惰眠をむさぼる間抜けな寝顔なんて見てたら、こっちまでなんか、眠くなってくるじゃねーかよ……。